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みことば
「神様は備えてくださる」
2週間にわたって「マケドニアの教会」について学んできましたが、今週がこのシリーズの最後のメッセージです。今日は、彼らがどのように「自分たちにある以上に」与えることを学んだのかを見ていきます。 旧約聖書のアブラハムとイサクの物語を思い出します。神様にささげ物をするために山へ登る時、イサクは不思議に思い、父に聞きました。「火も薪もありますが、いけにえの羊はどこにありますか」。アブラハムは自分の息子をささげる覚悟をしていました。しかし、創世記22章8節でこう答えました。「神ご自身が、いけにえを備えてくださいます」。なんという力強い信仰でしょう。アブラハムは「備えてくださる神」、すなわちエホバ・イルエであることを知っていました。 私は、マケドニアの教会にも同じ心があったと信じています。とても貧しかったのに、彼らは与えました。なぜでしょうか?——神様が備えてくださるからです。自分たちのほうが必要があったのに、彼らは与えました。なぜでしょうか?——神様が備えてくださるからです。何も残っていなくても、彼らは力以上に与えました。なぜでしょうか?——神様が備えてく
マーク エバスコ
11月16日読了時間: 2分


「与えることは受けることよりも幸いです」
今日は「マケドニアの教会」についての3回シリーズの2回目です。マケドニアの教会はとても貧しい教会でした。実は、エルサレムの教会よりももっと貧しかったのです。では、なぜパウロは、そのような貧しい教会を、裕福なコリントの教会に対して励ましの模範として示したのでしょうか?それは、彼らが「受ける」のではなく「与える」教会だったからです。 もちろん、受けること自体が悪いわけではありません。ときどきプレゼントをもらうのは嬉しいことです。しかし、イエス様も「受けるよりも与えるほうが幸いです」と教えられました。実際に、イエス様ご自身がその模範を示されました。天から下って人間となられ、十字架でいのちを捧げ、私たちの救いのために死なれたのです。 今朝は、この「与える心」について、そしてそれが「自己中心」ではなく「無私」の心にどのようにつながっているのかを学びましょう。無私であるというのは、自分のことをまったく考えないという意味ではありません。むしろ、「自分より他人を先に考える」ということです。イエス様は聖書の中で、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と教えられまし
マーク エバスコ
11月10日読了時間: 2分


「見ならうべきお手本」
先週、私たちは「イエスさまが私たちのために祈っておられる」ことを学びました。王の王であるイエスさまが、私たちのために天の父にとりなしてくださる―これは本当に大きな喜びです。 私たちは祈るべきときに忘れてしまうことがあります。そして問題に出会うことがありますが、それでも乗り越えることができます。なぜなら、キリストご自身が私たちのために祈っておられるからです。イエスさまは私たちを深く愛しておられます。そのことをいつも覚えましょう。 これから3回、聖書に出てくるとても貧しい教会について学びます。 その教会は貧しかったのに、パウロは彼らをクリスチャンのお手本として紹介しました。神さまの恵みをどのように用いるかということで、すばらしい姿を示したからです。 この世では、「まず自分が大切」と考えるのが普通です。人間は自分中心になりやすいからです。しかし、クリスチャンはキリストに倣う者です。 罪が入ったとき、キリストはご自分をささげてくださいました。それは自己中心とは反対の生き方です。イエスさまは、私たちのためにいのちを与えてくださいました。...
マーク エバスコ
11月4日読了時間: 2分


「信仰によって、生きる」
過去2回の日曜礼拝で、私たちは神様を信じた少年の話を学びました。私たちのクリスチャン生活でも、同じように神様を信じる心が大切です。弟子たちのように、自分の知恵に頼って、神様を信じなかった者にはなりたくありません。 自分の考えに頼ると、神様が私たちを通してなさることを制限してしまいます。弟子たちは問題ばかりを見て、「この群衆を養うことはできない」と思いました。しかし、少年は違いました。彼は神様に目を向け、神様なら問題を解決できると信じたのです。彼は、自分の持っているわずかなものをイエス様の御手にゆだねれば、それで十分だと信じました。 これこそが、「信仰によって生きる」ということです。目に見えるものではなく、神様の力と善を信じることです。目に見えるものは「足りない」と言うかもしれませんが、信仰は「神様は十分だ」と言います。 ですから、私たちも主と共に歩む中で、小さなことにも、大きな問題にも信仰を持ちましょう。自分の「五つのパンと二ひきの魚」を主にささげるとき、主は私たちの想像を超えることをなしてくださいます。信仰が、見えるもののためではなく、私たちが
マーク エバスコ
10月25日読了時間: 1分


「自分の力ではなく、信仰によって」
先週の日曜日、私は「五千人の給食」の物語の最初の部分について語りました。私たちは、弟子たちがイエス様ができることを信じていなかったことを学びました。 「信じる」と「信仰を持つ」ことには違いがあります。 聖書は、「悪霊でさえ神がいることを信じておののいている」(ヤコブ2:19) と教えています。「イエス様を信じます」と言うのは簡単ですが、本当に信 仰を持つことは別のことです。 イエス様に信仰を持つということは、私たちのすべての信頼をイエス様に ゆだねることです。 イエス様に信仰を持つということは、自分の知恵や力に頼らないことで す。 イエス様に信仰を持つということは、神様の御言葉である聖書を信じるこ とです。 ピリポのように「七か月分の給料でも足りません」と言ったり、 アンデレのように「これでは多くの人の中では何の役にも立ちません」と言 ったり、 また他の弟子たちのように「人々を帰らせてください」と言う者にならない ようにしましょう。 奇跡は、神様ができると信じるときに起こります。 今日は、神様を信じた一人の少年について学びます。...
マーク エバスコ
10月17日読了時間: 1分


「自分の力ではなく、信仰によって」
先週の礼拝では、困っている時に神さまが私たちを慰めてくださるという お話でしたね。神さまが私たちを愛して、気にかけてくださっていることを 心から感謝します。 今週は、信仰について考えたいと思います。聖書には、「信仰がなくては、 神を喜ばせることはできません」と書かれています。つまり、神さまを喜 ばせたいなら、神さまを信じる心が大切だということです。 でも、実際には、私たちは自分の知恵や力に頼ってしまうことが多いです ね。そして、ほかに道がない時だけ神さまのもとに行くこともあります。で も、それは本当の信仰ではありません。どんな小さな決めごとでも、まず 神さまに祈り、導きを求めることが大切です。 自分の力でやろうとするのは簡単ですが、失敗してしまうことも多いで す。だからこそ、信仰が必要なのです。たとえ理解できなくても、神さまは いつも最善を知っておられると信じましょう。 聖書の中でも、多くの人が信仰によって行動しました。エリヤは、飢きんの 時にやもめの女に食べ物を求めました。ノアは、雨が一度も降っていない 時代に箱舟を作りました。アブラハムは、行
マーク エバスコ
10月17日読了時間: 2分


「神様の希望の道」
今度の日曜日から、私が希望バプテスト教会の牧師として歩み始めます。 まず、ここまで支えてくださった皆さんに心から感謝します。また、ザレラ 先生ご一家のために、これからもお祈りを続けましょう。特に健康のため、 そして神様が与えてくださった新しい宣教のために覚えてください。 これから前に進む中で、神様がこの教会にすばらしいことをしてくださる と信じています。教会の大切な目的は二つです。神様に栄光を帰すこと、 そして周りの人々を愛することです。私は前にも言いましたが、私たちの 教会は二つの愛で知られるべきだと思います。まだ救われていない人(教 会の外の人)を愛すること、そしてすでに救われている人(教会の中の人) を愛することです。この二つがあるとき、神様は栄光を受けられます。私 の祈りは、希望バプテスト教会がその名前の通り、「希望の場所」として立 ち続けることです。そしてその希望は、私たちのうちにあるイエス・キリスト です。 兄弟姉妹、日本にはまだ多くの働きがあります。神様が私と妻をここに呼 んでくださったとき、私たちは家族や友人、また快適な生活を置い
マーク エバスコ
10月17日読了時間: 2分
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