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みことば
「母の尊い愛」
「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。」 イザヤ書66章13節 お母さんのことで一番覚えていることは何ですか? それは、お母さんの手かもしれません。いつも忙しそうに、料理をして、掃除をして、何かを直して。あるいは、やめてと言っても心配し続けてくれたこと。私たちの多くにとって、一番古い記憶はお母さんと共にあります — その声、その存在、そばにいてくれるだけで安心できたあの感覚。 モーセが生まれた時、パロはヘブル人の男の赤ちゃんをすべてナイル川に投げ込むよう命じていました。モーセの母ヨケベデは恐れに屈することもできました。しかし彼女は籠を編み、赤ちゃんを中に入れ、その無邪気な命を守るために、まさに殺すために使われるはずだったナイル川に、その籠を置きました。そして姉のミリアムを遠くから見張らせ、モーセを神の御手に委ねました。そして彼女は手放したのです — 最も愛する子を、神に信頼して。 これが母の愛です。行動します。犠牲を払います。そして、もうできることが何もない時、信頼します。 母の愛に勝るものは何もありません。 今日ここにいるお母
マーク エバスコ
5月10日読了時間: 2分
「救われたのは、仕えるため」
救いは、この世で一番すばらしい贈り物です。自分では何もしていないのに、ただ神様の恵みによって与えられるものです。助け出されるだけで、十分すぎるほどです。でも神様は、そこで終わりませんでした。神様は私たちを、何かのために救ってくださいました。それは「目的」のため。「他の人のために生きる」ためです。 パウロはエペソ書の中で、私たちは「神の作品」だと言っています。ギリシャ語では poiema(ポイエマ) という言葉で、英語の「poem(詩)」のもとになった言葉です。あなたは失敗作ではありません。神様が丁寧に作り上げた、完成した作品です。あなたが生まれるずっと前から、神様はあなたのためにするべき「良い行い」を用意してくださっていました。 つまり、奉仕(人のために仕えること)は、恵みをもらうための行動ではありません。恵みをいただいたから、自然とあふれ出てくるものです。お腹を空かせた人を助けるとき、悲しんでいる人に寄り添うとき、必要としている人のそばにいてあげるとき——それこそが、神様が私たちを救ってくださった理由を生きることです。 今日、神様があなたのため
Mark & Yoshiko Evasco
5月2日読了時間: 2分
「あなたは何に信頼していますか?」
1988年4月、ある夜のニュースで、スカイダイバーでもあったカメラマンの話が報じられました。彼は他の人たちと一緒に飛び降り、その様子を撮影していました。しかし、最後のダイバーがパラシュートを開いた瞬間、映像が乱れました。カメラマンはパラシュートを着けずに飛び降りてしまい、そのまま亡くなったのです。リップコードに手を伸ばしたとき、それがないことに気づきました。彼の信頼は、存在しないものに向けられていたのです。神以外に信頼を置くことも、霊的には同じように危険です。 そのスカイダイバーには自信と勇気がありましたが、信頼は自分自身にありました。 多くの人も同じように生きています。人生が順調に見えても、救えないものに頼っているなら、それは存在しないパラシュートを信じているのと同じです。聖書は、真の安全が神にあることを教えています(詩篇118篇8節)。 イエス・キリストは単なる考えや予備ではありません。唯一の救い主であり、確かな土台です。彼は気づいたときには手遅れでしたが、私たちは今気づくことができます。 問いはシンプルです。みなさんは何に信頼を置いています
マーク エバスコ
5月2日読了時間: 1分
信仰の一歩を踏み出そう
アフリカのインパラは、とてもすばらしい動物です。10フィート以上の高さに跳び、1回で30フィート以上進むことができます。それでも、動物園ではわずか3フィートの壁で囲うだけで中にとどめることができます。なぜでしょうか。それは、着地する場所が見えないと跳ばないからです。 私たちも、このインパラのようです。 神様は私たちに、ご自身を信頼し、信仰によって前に進む力を与えてくださいました。それでも私たちは、その先が見えないために、ためらってしまいます。私たちは、従う前に結果を知りたがり、一歩踏み出す前にはっきりした道を求めます。しかし、クリスチャンの歩みはそうではありません。 聖書は、「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます」(第二コリント5章7節)と教えています。信仰とは、すべてが見えなくても神様を信頼することです。導かれる神様が、私たちの着地も守ってくださると信じることです。 神様の導きが不確かに見える時もありますが、すべてをご存じの神様を信頼することができます。 恐れによって従うことをやめてしまわないようにしましょう。「3フィートの壁」
マーク エバスコ
4月18日読了時間: 2分
「ノックする信仰」
聖書には、ロダという女の子が出てきます。ペテロは牢屋に入っていまし た。とても難しい状況でした。でも教会の人たちは集まって、一生懸命に ペテロのために祈っていました。神様に助けを求めていました。 すると、神様はその祈りに答えられました。 神様の力で、ペテロは牢屋から出ることができました。そして祈っていた 家に行って、ドアをノックしました。ここで面白いことが起こります。ロダがド アに来ました。ペテロの声を聞いて、とても嬉しくなりました。でもドアを開 けないで、そのまま中に走って行って、「ペテロが外にいます!」と言いま した。でも祈っていた人たちは、「あなたはおかしい」と言いました。 ペテロのために祈っていたのに、その答えを信じることができませんでし た。その間、ペテロは外でずっとノックしていました。そして最後にドアを開 けたとき、みんなとても驚きました。 私たちも同じようなことがあります。祈ります。でも心の中で、本当には神 様が答えてくださると信じていないことがあります。家族の救いのために 祈ります。必要のために祈ります。導きのために祈ります。でも
マーク エバスコ
4月11日読了時間: 2分
「主が生きておられるから」
今日、世界中でイエス・キリストの復活が祝われています。でも、多くの人は 「イエスはただの神話やおとぎ話だ」と言います。けれども、イエス・キリスト は人が作った存在ではありません。サンタクロースでも、スーパーマンで も、アンパンマンでもありません。イエスの復活は、実際に起こった歴史的 な事実です。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、私たちは他の宗教と何も変わ らないことになります。 でも、そうではありません。墓は空です。イエス様は生きておられます。 主が生きておられるからこそ、私たちのすべてが変わります。私たちの罪 は赦され、信仰はむだではなく、将来は主にあって確かなものです。 また、主のための働きは決してむだになりません。 どんな小さなことでも、すべて意味があります。 だからこそ、私たちはこの世だけでなく、永遠を見て生きます。 信仰を持って歩み、喜びをもって主に仕えていきましょう。 ただ復活を祝うだけでなく、その力の中で生きていきましょう。 主が生きておられるから、私たちには希望があります。 主が生きておられるから、私たちには目的がありま
マーク エバスコ
4月11日読了時間: 1分
「新しい年への希望」
2025年は終わり、2026年がやって来ました。今年の希望教会のテーマは 「主にあって成長する」です。このテーマを通して、私たちはもっと神様に近づいていきたいと願っています。 私の心からの願いは、希望バプテスト教会が、もっとキリストに似た教会となり、まだ救いを知らない人たちに、神様の愛をあらわしていくことです。 私たちの力だけでは難しいこともあります。しかし、聖書は「神様には不可能なことはない」と教えています。 今月は「希望に成長する」ことに心を向けていきます。なぜ、神様に希望を置くことが大切なのでしょうか。それは、人に希望を置くと、失望することがあるからです。私たちは弱い存在です。しかし、神様に希望を置くと、決して失望することはありません。 たとえ今、結果が見えなくても、神様は働いておられ、すべてを支配しておられます。そして、どんな時でも、神様は私たちと共にいてくださいます。世の終わりまで、共にいてくださいます。 これが、クリスチャンとしての祝福された希望です。多くの人は希望を持たずに生きていますが、私たちには永遠に続く希望があります。...
マーク エバスコ
1月4日読了時間: 1分
「救いに感謝して」
だれかがこう言いました。「もし星が一年に一度しか見えなかったら、人はみんな夜じゅう起きて星を見るだろう」と。 私たちは、当たり前になった祝福を見失いやすいものです。 このクリスマスの季節は、感謝と振り返りの時です。一年を無事に過ごせたこと、食べ物があること、家族がそろっていること。どれも感謝すべき尊い恵みです。 しかし、私にとって一番の感謝は、神さまが私を救ってくださったことです。 救われるに値しない私を、神さまは顧みてくださり、滅びから救い、永遠の命を与えてくださいました。これは、私が決して忘れることのない感謝です。 だからこそ、この良い知らせを周りの人に伝えなければならないと思わされます。もし命を救う治療法を知っていながら、それを人に伝えないなら、それは身勝手でしょう。同じように、キリストの救いを知った私たちには、それを分かち合う責任があります。 このクリスマス、まだ救われていない家族や友人に、クリスマスの本当の意味を伝えましょう。私たちには、いつまでも時間があるわけではありません。私は、キリストが私を救ってくださったことに感謝しています。.
マーク エバスコ
2025年12月22日読了時間: 1分
「神様は備えてくださる」
2週間にわたって「マケドニアの教会」について学んできましたが、今週がこのシリーズの最後のメッセージです。今日は、彼らがどのように「自分たちにある以上に」与えることを学んだのかを見ていきます。 旧約聖書のアブラハムとイサクの物語を思い出します。神様にささげ物をするために山へ登る時、イサクは不思議に思い、父に聞きました。「火も薪もありますが、いけにえの羊はどこにありますか」。アブラハムは自分の息子をささげる覚悟をしていました。しかし、創世記22章8節でこう答えました。「神ご自身が、いけにえを備えてくださいます」。なんという力強い信仰でしょう。アブラハムは「備えてくださる神」、すなわちエホバ・イルエであることを知っていました。 私は、マケドニアの教会にも同じ心があったと信じています。とても貧しかったのに、彼らは与えました。なぜでしょうか?——神様が備えてくださるからです。自分たちのほうが必要があったのに、彼らは与えました。なぜでしょうか?——神様が備えてくださるからです。何も残っていなくても、彼らは力以上に与えました。なぜでしょうか?——神様が備えてく
マーク エバスコ
2025年11月16日読了時間: 2分


「与えることは受けることよりも幸いです」
今日は「マケドニアの教会」についての3回シリーズの2回目です。マケドニアの教会はとても貧しい教会でした。実は、エルサレムの教会よりももっと貧しかったのです。では、なぜパウロは、そのような貧しい教会を、裕福なコリントの教会に対して励ましの模範として示したのでしょうか?それは、彼らが「受ける」のではなく「与える」教会だったからです。 もちろん、受けること自体が悪いわけではありません。ときどきプレゼントをもらうのは嬉しいことです。しかし、イエス様も「受けるよりも与えるほうが幸いです」と教えられました。実際に、イエス様ご自身がその模範を示されました。天から下って人間となられ、十字架でいのちを捧げ、私たちの救いのために死なれたのです。 今朝は、この「与える心」について、そしてそれが「自己中心」ではなく「無私」の心にどのようにつながっているのかを学びましょう。無私であるというのは、自分のことをまったく考えないという意味ではありません。むしろ、「自分より他人を先に考える」ということです。イエス様は聖書の中で、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と教えられまし
マーク エバスコ
2025年11月10日読了時間: 2分


「見ならうべきお手本」
先週、私たちは「イエスさまが私たちのために祈っておられる」ことを学びました。王の王であるイエスさまが、私たちのために天の父にとりなしてくださる―これは本当に大きな喜びです。 私たちは祈るべきときに忘れてしまうことがあります。そして問題に出会うことがありますが、それでも乗り越えることができます。なぜなら、キリストご自身が私たちのために祈っておられるからです。イエスさまは私たちを深く愛しておられます。そのことをいつも覚えましょう。 これから3回、聖書に出てくるとても貧しい教会について学びます。 その教会は貧しかったのに、パウロは彼らをクリスチャンのお手本として紹介しました。神さまの恵みをどのように用いるかということで、すばらしい姿を示したからです。 この世では、「まず自分が大切」と考えるのが普通です。人間は自分中心になりやすいからです。しかし、クリスチャンはキリストに倣う者です。 罪が入ったとき、キリストはご自分をささげてくださいました。それは自己中心とは反対の生き方です。イエスさまは、私たちのためにいのちを与えてくださいました。...
マーク エバスコ
2025年11月4日読了時間: 2分


「信仰によって、生きる」
過去2回の日曜礼拝で、私たちは神様を信じた少年の話を学びました。私たちのクリスチャン生活でも、同じように神様を信じる心が大切です。弟子たちのように、自分の知恵に頼って、神様を信じなかった者にはなりたくありません。 自分の考えに頼ると、神様が私たちを通してなさることを制限してしまいます。弟子たちは問題ばかりを見て、「この群衆を養うことはできない」と思いました。しかし、少年は違いました。彼は神様に目を向け、神様なら問題を解決できると信じたのです。彼は、自分の持っているわずかなものをイエス様の御手にゆだねれば、それで十分だと信じました。 これこそが、「信仰によって生きる」ということです。目に見えるものではなく、神様の力と善を信じることです。目に見えるものは「足りない」と言うかもしれませんが、信仰は「神様は十分だ」と言います。 ですから、私たちも主と共に歩む中で、小さなことにも、大きな問題にも信仰を持ちましょう。自分の「五つのパンと二ひきの魚」を主にささげるとき、主は私たちの想像を超えることをなしてくださいます。信仰が、見えるもののためではなく、私たちが
マーク エバスコ
2025年10月25日読了時間: 1分


「自分の力ではなく、信仰によって」
先週の日曜日、私は「五千人の給食」の物語の最初の部分について語りました。私たちは、弟子たちがイエス様ができることを信じていなかったことを学びました。 「信じる」と「信仰を持つ」ことには違いがあります。 聖書は、「悪霊でさえ神がいることを信じておののいている」(ヤコブ2:19) と教えています。「イエス様を信じます」と言うのは簡単ですが、本当に信 仰を持つことは別のことです。 イエス様に信仰を持つということは、私たちのすべての信頼をイエス様に ゆだねることです。 イエス様に信仰を持つということは、自分の知恵や力に頼らないことで す。 イエス様に信仰を持つということは、神様の御言葉である聖書を信じるこ とです。 ピリポのように「七か月分の給料でも足りません」と言ったり、 アンデレのように「これでは多くの人の中では何の役にも立ちません」と言 ったり、 また他の弟子たちのように「人々を帰らせてください」と言う者にならない ようにしましょう。 奇跡は、神様ができると信じるときに起こります。 今日は、神様を信じた一人の少年について学びます。...
マーク エバスコ
2025年10月17日読了時間: 1分


「自分の力ではなく、信仰によって」
先週の礼拝では、困っている時に神さまが私たちを慰めてくださるという お話でしたね。神さまが私たちを愛して、気にかけてくださっていることを 心から感謝します。 今週は、信仰について考えたいと思います。聖書には、「信仰がなくては、 神を喜ばせることはできません」と書かれています。つまり、神さまを喜 ばせたいなら、神さまを信じる心が大切だということです。 でも、実際には、私たちは自分の知恵や力に頼ってしまうことが多いです ね。そして、ほかに道がない時だけ神さまのもとに行くこともあります。で も、それは本当の信仰ではありません。どんな小さな決めごとでも、まず 神さまに祈り、導きを求めることが大切です。 自分の力でやろうとするのは簡単ですが、失敗してしまうことも多いで す。だからこそ、信仰が必要なのです。たとえ理解できなくても、神さまは いつも最善を知っておられると信じましょう。 聖書の中でも、多くの人が信仰によって行動しました。エリヤは、飢きんの 時にやもめの女に食べ物を求めました。ノアは、雨が一度も降っていない 時代に箱舟を作りました。アブラハムは、行
マーク エバスコ
2025年10月17日読了時間: 2分


「神様の希望の道」
今度の日曜日から、私が希望バプテスト教会の牧師として歩み始めます。 まず、ここまで支えてくださった皆さんに心から感謝します。また、ザレラ 先生ご一家のために、これからもお祈りを続けましょう。特に健康のため、 そして神様が与えてくださった新しい宣教のために覚えてください。 これから前に進む中で、神様がこの教会にすばらしいことをしてくださる と信じています。教会の大切な目的は二つです。神様に栄光を帰すこと、 そして周りの人々を愛することです。私は前にも言いましたが、私たちの 教会は二つの愛で知られるべきだと思います。まだ救われていない人(教 会の外の人)を愛すること、そしてすでに救われている人(教会の中の人) を愛することです。この二つがあるとき、神様は栄光を受けられます。私 の祈りは、希望バプテスト教会がその名前の通り、「希望の場所」として立 ち続けることです。そしてその希望は、私たちのうちにあるイエス・キリスト です。 兄弟姉妹、日本にはまだ多くの働きがあります。神様が私と妻をここに呼 んでくださったとき、私たちは家族や友人、また快適な生活を置い
マーク エバスコ
2025年10月17日読了時間: 2分
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