「与えることは受けることよりも幸いです」
- マーク エバスコ
- 11月10日
- 読了時間: 2分

今日は「マケドニアの教会」についての3回シリーズの2回目です。マケドニアの教会はとても貧しい教会でした。実は、エルサレムの教会よりももっと貧しかったのです。では、なぜパウロは、そのような貧しい教会を、裕福なコリントの教会に対して励ましの模範として示したのでしょうか?それは、彼らが「受ける」のではなく「与える」教会だったからです。
もちろん、受けること自体が悪いわけではありません。ときどきプレゼントをもらうのは嬉しいことです。しかし、イエス様も「受けるよりも与えるほうが幸いです」と教えられました。実際に、イエス様ご自身がその模範を示されました。天から下って人間となられ、十字架でいのちを捧げ、私たちの救いのために死なれたのです。
今朝は、この「与える心」について、そしてそれが「自己中心」ではなく「無私」の心にどのようにつながっているのかを学びましょう。無私であるというのは、自分のことをまったく考えないという意味ではありません。むしろ、「自分より他人を先に考える」ということです。イエス様は聖書の中で、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と教えられました。
キリスト教の本質は、一言で言えば「惜しみなく与える心」、つまり「寛大さ」です。マケドニアの教会は聖書の中で最も貧しい教会でしたが、それでも与えました。なぜなら、彼らは本当のクリスチャンとは「与える心を持つ人」だと理解していたからです。
世の中は「まず自分を愛しなさい」と言います。しかし、聖書はこう教えています。「愛さずに与えることはできるが、与えずに愛することはできない。」



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